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「天才達の日課」という本を紹介した記事を読んだのだが、「私は毎日書かなければならない。それは成果をあげるためではなく、習慣を失わないためだ」という、トルストイの言葉が印象深かった。自分の場合、仕事では報告書などのまとまった文章を書くことがなくなってしまったけれど、今後必要性が生じる可能性はゼロではない。実際に必要が生じても、ここで駄文を書き続けていれば、何もしないでいるよりはマシだろうと思っている(笑)。続けることが大事という意味では、ここで書いたことも同じである。
以前近所のスーパーが閉店したが、跡地に全く別のものができるのであれば、最寄り駅を変えることを含めて引っ越し先を検討しようと思っていた。しかしながら、詳細は不明だけど、その後もスーパーになることは確実のようなので、引っ越し先は近所で考えることにする。もっとも、新しいお店の開店は来年後半なので、もうしばらく不便な生活(大袈裟な表現だ)が続くけど。
部署内で、飲み会の話が最後の方に来たとき。結構生々しい実感の仕方だと思う。
ちまちまと基礎物理の演習問題を解いていたが、力の計算なのに、質量だけで(重力加速度を掛けずに)計算していたり、斜面上に置いた物体に関する問題なのに、分力をちゃんと考えていなかったりと、間抜けな間違いをしまくった。問題を前に手が動かないよりはマシだと考えることにしよう(苦笑)
来月下旬に高校の同級生と都内で飲むことになった。仕事が忙しくなってからはご無沙汰なので、多分、3年ぶりくらいだと思う。詳細は追って決めるとして、今から楽しみだ。ただ、その数日後が二次試験の合格発表なので、それは楽しみではない。
社外の有識者に自分の考えをぶつけてみて、それに対する反応から自分の考え方を修正していくことで、自分のスキルを磨くことが多い。本来は、職場の上司や先輩から実務を通じて教わるものなのだろうが、(何度か書いたように)そんなものは期待できないので、自分にはこれがOJTである。自分の理解不足を実感して恥ずかしい気分にもなるけれど、こういう経験から学んだことが身につきやすいのも事実である。もう一つは部下の教育(教えることは学ぶこと)だが、これは敢えて書くまでもない。
上記の「有識者」は「村社会の上位階級」と言い換えても良いのだが、村社会の考え方と、自分が村民になる前に常識として持っていた考え方とでは大きく異なるところがあって、そこは上手く使い分ける必要があると思っている。村社会の考え方に違和感を感じつつも、それをひっくり返すだけの力は持ち合わせていないし、その考え方を全否定するつもりもない(*1)。村の掟の範囲で上手くやることを考えつつ、村外の人との意思の疎通もできるよう、今まで持っていた考え方も捨てずにいたいものだ。
今日も力の釣り合いに関する問題を解いた。このときと似たような感じで、解き始めは少々混乱したが、何にどんな力が働いているかを整理できればサクッと解けた。
高校物理レベルの問題ではあるが、高校生の頃のように丸暗記した公式や解き方のパターンに当てはめるのではなく、一応考えて解けているのが楽しいのだろう。